「大劉記印」の印章

『漢官旧儀』には次のように記される。「秦以前、民は皆、金・玉・銀・銅・犀・象の印を佩き、方寸の璽にして、各々好むところを服す。秦より以後は天子のみ印を『璽』と称し、また玉のみを用い、群臣は敢えて用いず」。さらに、「諸侯王は黄金の璽、駱駝鈕、文は『璽』と言う」「皇太子は黄金印・亀鈕、印文は『章』と言う」「徹侯は金印・紫綬」とある。
海昏侯・劉賀は徹侯に属する。ゆえに本来は亀鈕の黄金印を有すべきであり、玉質の印章が現れるべきではない。『漢官旧儀』の規定によれば、天子・諸侯王は「璽」を称し、六百石から二百石の官人は「印」と称し、銅質・鼻鈕である。これにより「大劉記印」は制度違反の印章であることが分かる。劉賀は列侯であり、第一に玉を用うべきでなく、第二に亀鈕も不相応であり、「印」は六百石から二百石の官人印章の通称である。すなわち、この印は皇帝的身分と一般官人の標示をともに備え、海昏侯の特別な身分と境遇を指し示し、制作時の特殊な心情を反映した可能性がある。「大劉印」、すなわち「大漢記印」は、劉賀の身分の特異性を映し出している。
漢代において、諸侯王・列侯が死去し、あるいは葬送の日には、朝廷は官人を派遣して弔問させたが、実際には葬儀が制度に違反していないかを監督する行為であった。『後漢書・礼儀下』にはこうある。「諸侯王・列侯・始封貴人・公主が薨ずれば、皆、印璽・玉匣銀縷(葬服)を贈る;大貴人・長公主には銅縷。諸侯王・貴人・公主・公・将軍・特進には皆、器を賜う。官中二十四物。使者は喪を治め、穿作す。柏槨。百官は会して送り、故事の如し。諸侯王・傅・相・中尉・内史は喪事を典し、大鴻臚は諡を奏す。天子の使者は璧帛を贈り、日に載せて諡を命ずる。礼の如く下陵す。群臣は粗服を釈き、主人は礼の如し」。
海昏侯の死の時点では、すでに三千戸から千戸へと削られた小侯であったが、なお監督のための派遣が必要であった。方一・七五センチの「大劉記印」二顆が、果たして漢の宣帝から贈られた印璽であったのか、あるいは私的に副葬された違制品であったのかは、なお検討に値する。さらに「劉賀」と刻まれたもう一顆も違制品である。これは、劉賀が帝号を廃され昌邑の故国に帰った際に刻んだ私印であろう。すでに一切の爵位を失い、監督下の特別居住民であったから、本来は銅・鉄・石・木などの材料で刻むべきであった。しかし、そのような状況で劉賀は玉質の印章を敢えて刻んだ。これは漢の宣帝による特例の許可、すなわち死後に贈られた、名のみあって官職のない印であった可能性がある。たとえ平民であれ、なお高貴である。「大劉玉印」「劉賀」という名、「玉質」という要素を総合すれば、墓主・劉賀の皇帝位への未練、あるいは宣帝が劉賀をかつての大漢皇帝として認めたことの表れとも解釈できよう。
公開日: 2025年9月9日 · 更新日: 2025年9月10日